すみくにぼちぼち日記

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ドラえもん のび太の新恐竜の感想-新恐竜はつまらない?面白い?

先日飛行機で『ドラえもんのび太の新恐竜』を見ました。2019年に公開された月面探査記がとてもいい作品だったので、こちらも期待したのですが、残念ながら期待はずれ、言ってしまえば稀に見る駄作だったと感じてしまいました。

ストーリー自体は面白いなと思ったのですが、その他の部分で疑問に思ったことや残念に感じたことが多くあったのでご紹介します。

※この記事は冒頭からネタバレ及び否定的な感想を含むので、未だ見ていない、否定的な感想は見たくないという場合はご注意ください

 

ドラえもん のび太の新恐竜の感想-新恐竜はつまらない?面白い?

新恐竜の内容は、1980年に公開された『のび太の恐竜』と1987年に公開された『竜の騎士』をミックスした内容で、のび太が発見した恐竜の卵から生まれた恐竜「キュー」と「ミュー」を白亜紀に帰すためにタイムマシンで白亜紀に行き、そこで巨大隕石の衝突に出くわす、という物語です。

今回登場した恐竜「キュー」と「ミュー」はどちらものび太の恐竜に登場する「ぴー助」の種「フタバスズキリュウ」とは異なっており、新種の恐竜として扱われ、この新種の恐竜の存在が物語の鍵ともなっています。

先に書いたように、私としてはこの映画は駄作だったと思うのですが、ここからは、何故新恐竜が面白くなかったのかをご紹介します。

 

物語がちぐはぐ

まず、一番よくなかったなと思うところが、物語に一貫性がなく、整合性が取れていないというところ。

ドラえもんの映画は常々子どもをターゲットにしているけど、新しい学びや発見があって、時には難しい非情さもあって、話が一貫している、大人の物語でもあります。

新恐竜は、あからさまに笑いや涙を誘ってくる描写が多く、また、物語に一貫性もなく、残念ながら、つぎはぎだらけの物語だと思いました。

 

序盤のタマゴの発見から孵化まで

例えば、物語の序盤でのび太が恐竜博物館でタマゴの化石らしきものを発見(偶然躓いて発見)して、タイムふろしきでタマゴを孵すシーンがあります。

タイムふろしきは物の時間を遡らせたり逆に早送りしたりする道具なはずなのに、何故か孵らなくて化石化したタマゴが、タイムふろしきで時間を巻き戻しただけで孵化してしまいました。これはタイムふろしきの機能から考えてもありえない現象です。

のび太の恐竜では、のび太が自分で発掘調査をして見つけた化石をタイムふろしきでタマゴに戻して、何日も温めて孵化させるという描写だったのに、新恐竜では序盤から残念な感じを覚えてしまいました。

タイムふろしきで時間を巻き戻しただけで孵化するのであれば、のび太の頑張りも無かったことになり、また、そのタマゴが孵化せずに化石化したという事実が破綻してしまいます。

また、序盤はキャラクター設定などを決める大切な土台の部分なのに、のび太が棚から牡丹餅的にタマゴを発見し、苦労なくタマゴを孵化させて…この、のび太のキャラクター設定が、終盤以降の物語の展開に水を差してしまっているような気がしました。

 

過去に戻る理由が分からない

のび太の恐竜では、ぴー助を(裏山の?)池で育てるのですが、その時に体が大きくなりすぎて大騒ぎになるから、という、やむにやまれない理由で過去に旅立ちます。

新恐竜では、「飼育用ジオラマセット」という、箱庭のような道具をドラえもんが出してくれて、その中では生き物の大きさも変えることができて、天候も操ることができるという設定(終盤のキーとなる設定)なのですが、こんな道具があるならわざわざ白亜紀にキューやミューを帰しに行く必要がないのになという疑問が生まれました。

ドラえもんの映画では、のび太たちが冒険に出かけるまでのストーリー、「何故冒険にでかけるのか」という目的と理由に一貫性があるのが特徴なのに、過去に戻る理由が弱すぎて疑問を持ってしまいました。

例えば、『ドラビナンナイト』では、アラビアンナイトの世界に取り残されてしまったしずかちゃんを助けに行くために、現実世界からアラビアンナイトの世界に行く方法がないかを調査し、アラビアンナイトに登場する実在の人物「ハールンアッラシード王」が統治する794年のバグダッドに降り立ちます。

このように、その世界に目的を持っていく(偶発的に冒険に巻き込まれることもある)のであれば、その目的に向かった理由をもっと明確に示してほしいと思いました。飼育用ジオラマセットがあるのに、わざわざ歴史を変えるかもしれないリスクを背負ってキューとミューを白亜紀に帰す理由が疑問でした。

 

結末の部分に壮大な矛盾がある

新恐竜で感じた違和感でも最も致命的なことが、最後の結末の部分です。

結末は、キューとミューは鳥の祖先であり、迫りくる隕石衝突から彼らを助けないと歴史が変わってしまうので、のび太たちが隕石衝突からキューとミュー、そしてその仲間たちを助けだす、というものでした。

この設定自体は面白いなと思ったのですが、問題は他の恐竜も一緒に助けてしまったこと。

前述の飼育用ジオラマセット(天候を操れる)に恐竜を誘導して、その中で隕石衝突後の気候変動から恐竜を守るという発想なのですが、キューとミューの種が鳥の先祖だから、のび太たちが助けなければ鳥たちが生まれなくなってしまうので、助けなければならないというのはいいのですが、他の恐竜までもが一緒に助かってしまったら、未来の世界に影響を与える(恐竜が絶滅しない)こととなってしまいます。

大原則として、ドラえもんたちの行動が未来を変えてはいけないというものがあるのに、現実世界で鳥として進化する恐竜と一緒に、トリケラトプスやティラノサウルス、プテラノドンなどを助けてしまってもいいのでしょうか。

彼らが絶滅しなければ、今の世の中はないのに、この救出劇をタイムパトロールも傍観し、その後の設定も全く考えられていなくて、その場のお涙頂戴のために、のび太たちに恐竜を救出させるのはどうかなと思いました。

例えば、本当に、現実世界とは別物として、彼らを救出するのであれば良いと思います。『のび太の竜の騎士』では、同じように隕石の衝突から恐竜を助け出すために、「聖域」として、地下に恐竜を非難させ、その後恐竜が独自の進化を遂げ、地底に広大な竜の人間の世界を築きます。

その進化した地底人と出会うところが、物語の始まりの部分となっていていて、「現実があって、その現実のルーツを探るために、過去に行き、そこで起した行動によって現在の現実が作られていた」という整合性に繋がるのです。

ですが、新恐竜は、生き残るはずの無い恐竜と、生き残って鳥に進化する恐竜が一緒に救出されて、しかも地上の箱庭の中で(外界とも自由に出入りできる)生き延びるという展開となっています。

この救出劇によって、未来(ドラえもんたちが生きる世界)が大きく揺らいでしまったのではないかなと考えるのが普通になってしまう展開にもやもやを感じました。

 

スパルタ教育をするのび太

物語の展開に違和感を覚えたのと同時に、のび太のキャラクター設定もおかしいと思いました。

のび太は基本的に何もできない人間(射撃、あやとり、昼寝は超一流)として設定されるのですが、映画は彼の努力する姿や立ち向かう姿、成長する姿を見ることができる、絶好の機会です。

しかし、この映画ののび太は終盤まで、のび太の成長は感じられず。

棚から牡丹餅的な運によって恐竜を発見して、何の苦労も無く卵を孵化させて、鉄棒ができなくても直ぐに諦めて… 

残念ながら努力をした形跡が微塵も感じられませんでした。唯一つだけ努力を感じたのは、キューが病気になった時に看病した点くらい。

それなのに、キューが、ミューやその仲間のように飛べないからといって、無理やり飛ばせようと何度も何度もスパルタと根性で練習させて…

相手の痛みを分かるのがのび太の良い所なのに、何の考えもなしに「みんなができるから頑張ればできる」なんて…

もしかしたら、キューが飛べない変種なのかもしれない。最初にキューはミューに比べて尻尾が短くて飛べないって、のび太が気付いたのに、そういう理由を考えずにただただスパルタに何度も挑戦させて、キューは飛べないから地面に何度も何度もたたきつけられて。

例えみんなができていても、人によってはできないこともあるって一番分かってるはずののび太が、キューの気持ちも考えずに無理やり飛ばせようとするシーンは、なんというか、残念でなりませんでした。

映画の中で努力もしていないのび太が、キューに努力を強いる姿をみると、「何も努力していないのび太が言うなよ」って、のび太に思ってしまう自分がいて。のび太が好きなのに、好きなのび太は一向に姿を見せなくて、口だけののび太ばかり見せられた映画だったなと思ってしまいました。

 

オマージュが効果的でない

この作品では、過去作に対するオマージュを感じるシーンが多く出てくるのですが、残念ながら効果的ではありませんでした。

 

しずかちゃんのセリフ

しずかちゃんがのび太に向かって、『結婚前夜』でしずかちゃんのパパが言う「あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。それが一番人間にとって大事なことなんだからね。」

というセリフをしずかちゃんの言葉で言うシーンがあるのですが、しずかちゃんは、そういうのび太の良さを言葉で表すのではなくて、心で知っている存在なのになと思いました。

そしてそういうのび太が「好き」という。しずかちゃんののび太に対する好意というのは、そういう一言で軽々しく言えてしまうものではなくて、心の中で育まれるもの。

実際、小学5年生時点では、しずかは出来杉にも好意を持っているはずなので、この時点ではのび太に対する好意は明確にあるものではない、体の中にあるものだと思うのです。

さらに、このセリフの良さを台無しにしているのが、これまでののび太の行動です。前述の通り、この映画ののび太は自分のことは棚に上げて、キューにスパルタと根性で飛ぶことを強要する存在と成り下がってしまっているのですが、そんなのび太に対して、しずかちゃんが、「のび太は人の痛みが分かる」と言っても、残念ながら心に響きませんでした。

 

ぴー助の登場

もう一つのオマージュとして、のび太の恐竜にでてくる恐竜ぴー助が登場するのですが、この作品は、のび太の恐竜のパラレルワールドなのに、何でぴー助が登場するのかが疑問でした。

確かに、過去にも映画に過去作のキャラクターが登場したこともあります。

例えば、『雲の王国』では、地上の環境を破壊する地上人に対して、天上界の人々が、「ノア計画」という計画の実行を検討するシーンが有ります。

「ノア計画」は、地上に大雨を降らせて地上を洗い流すという計画で、丁度旧約聖書のノアの箱舟が登場するシーンのような計画なのですが、それを阻止しようと、地上側の代表としてその会議にドラえもんたちが参加します。

そこで出てくるのが「キー坊」という、ドラえもんとのび太によって、命を与えられ、学問を身に着けた植物(木)のキャラクターでした。彼は、地上にものび太やドラえもんのような心優しい人々がいると訴えかけて、また、のび太たちがこれまで救ってきた動物たちも登場して、地上人を擁護するというシーンがありました。

でも、ここで登場するキャラクターたちは、コミックスの初期に登場するキャラクターたちで、パラレルワールドの存在ではありません。

一方で、ぴー助は、のび太の恐竜という、のび太の新恐竜の平行世界のキャラクターであり、新恐竜に登場させるのはおかしい(物語に矛盾が生じる)のです。

その点でも、もう少しこの登場に関しては実際に登場させる前に検討してほしかったなと思いました。

 

※聖書についてはこちら

sumikuni.hatenablog.com

 

笑いや涙を誘いすぎて…

笑いあり、涙あり、がドラえもんの映画の特徴なのは重々承知しています。ただ、笑いを作る、涙をつくる、というのはドラえもんの映画ではありません。

ドラえもんは、いい物語があって、自然と笑いや涙が出てくる作品なのです。

 

四次元ポケットからイナゴの缶詰

笑い、の観点から疑問が多く残ったのが、イナゴの缶詰。新恐竜では、肝心なときにドラえもんのポケットから大量にイナゴの缶詰が出てくるのですが、何でイナゴの缶詰?

このイナゴの缶詰は、映画の中でもとくに出てきた存在ではなく、いきなり突然現れた存在です。なので、何で四次元ポケットにイナゴの缶詰が大量に入っているのか、その裏設定(伏線)も無くて、イナゴの缶詰がポケットから出てくるたびに頭が?で覆い尽くされました。

 

キューが飛ぶシーンや恐竜を助けるシーン

キューが飛ぶシーンや恐竜を助けるシーンは涙を誘っているんだなと思いましたが、前述の疑問点などから、感情移入できませんでした。

「ドラえもんは泣ける」というのが前提にあったのだと思いますが、新恐竜は、疑問点が多すぎて、泣けるシーンで泣けなかったというのが、本音です。

 

良かった点は映像

新恐竜の良かった点は、色々考えたのですが、映像が綺麗だった点、くらいかなと思います。

 

2021/1/27追記

ブログの読者様から良かった点を色々教えていただいたので追記したいと思います。

・悪人がいない点

・漠然と夢がある

・小さい子供の目線ではとても面白い作品

・恐竜が出てくると男の子は喜ぶ

視点を変えると様々な見方があって、今回私は面白くなくかなと思ったのですが、他の視点で見ると良い作品だったという感想がある作品です。

これらの感想を聞いて、ドラえもんとして様々な世代に愛されると言うのが、ドラえもんいいところだなと改めてドラえもんの良さを感じました。

 

終わりに

この記事では、『ドラえもん のび太の新恐竜』の感想をご紹介しました。

この作品は、本当にドラえもんが好きな方が映画を作ったのかな疑問が残る作品だったかなと思いました。

ただ、このドラえもんも面白いという意見もあり、その様な感想を聞くと、ドラえもんが長い間様々な人々に愛されてきたのだなと感じることができたなと思います。

 

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