すみくにぼちぼち日記

メキシコ生活や欧米旅行記、語学、大学、美術館について

「中国人だ!コロナウィルスだ!逃げろ!」と言われて-人種差別を考える

メキシコには差別がほとんどありません。と、思っていたのですが、危機に陥ると人間の深層心理にある差別心が剥き出しになるんだなーと実感する出来事が起こりました。

中南米における差別の考察はこちら

つり目ポーズはアジア人差別か-中南米及びラテン国家における区別主義 - すみくにぼちぼち日記

すれ違いざまに暴言の少年

先日公園を家族で散歩していた時、男の子2人が前から自転車で走ってきました。

ちょうど私たちが止まって写真を撮ろうとした時、その二人組とすれ違ったのですが、その時に、テレビのニュースで聞いたような言葉を耳にし、ギョッとしました。

「Chinos! Corona Virus! Corre!」

意味がわかって無いと思ったのか、分かってると思って言ったのか…

「中国人だ!コロナウィルスだ!逃げろ!」

という、その子達が発した言葉が耳に残って消えませんでした。

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窓から投げかけられる差別用語

妻が今住んでいる居住区で散歩していると、窓から「中国人!!」という言葉を投げかけられました。

中南米スペイン語ではアジア人はみんな中国人という「Chino」という単語で一括りにされることがあるのですが、散歩をしている最中にわざわざその言葉を投げかけてくるというのは明らかにコロナウィルスから連想されるアジア人に対する偏見が詰まっています。

コロナウィルスの問題がなかった時には、一度もそんなことを言われたことがなく、驚きと違和感を感じました。

 

危機的な状況では敵対的に?

コロナウィルスの脅威が世界各地を震撼させる中、人々は手を取り合ってその困難に立ち向かう方が効率的だし現代的だと思います。

しかし、人間は弱い生き物だからなのか、脅威を前により攻撃的に、また、差別的になってしまうこともあるようです。

 実際、日本でも関東大震災で朝鮮系の人々(及びその様なレッテルを張られた人)の虐殺が起こったという痛ましい出来事もありました。

子どもはどうやって差別を学ぶの?

 大人が差別することもありますが、子どもが無意識のうちに差別的な発言をしていることもあります。今回の件も、子どもが発言した言葉。子どもは正直ですから、どこかで聞いた情報を簡単に人に投げかけてしまいます。

ただ気になることは、その情報、例えば「中国人=コロナウィルス」という図式を何処で覚えたのか、アジア人は見下す対象だといつ刷り込まれたのかと言うこと。コロナウィルスで言えば今はイタリアの方が凄いことになっていますが、果たして彼らはヨーロッパ系の人を見て「イタリア人、コロナウィルス、逃げろ!」という発言をするでしょうか?

面と向かっては差別しない私たち大人の、裏で行われている行動や発言が、子どもを介して社会に放出されているのかなと思うのは考えすぎでしょうか。

自分も無意識で人を差別していないか?

自分が被害者の立場で考えることも重要な場合が有りますが、この様な差別を投げかけられたとき、本当に考えたいことは「自分ははたして差別をしていないだろうか」と言うこと。

たぶん、無意識のうちに、または、自分が差別だと思っていないところで自分も差別をしているのかなと思います。

例えば、ヨーロッパの道端で「中国人!」と声をかけられたとき。大学生の頃はそれが嫌でたまりませんでした。「自分は中国人じゃないのに!」

ただある日友人に言われた言葉が印象的でした。

「中国人と呼ばれることは嫌じゃないけど、中国人と言う単語に差別的なニュアンスが含まれているのがとても悲しい」

自分もはっとする発言でした。自分が「中国人!」と言われたとき、「ニーハオ」と声をかけられたとき、何故嫌な気持ちになるんだろう?自分の友達の中国人はみんな尊敬できる、とても素晴らしい友人たちなのに… そんなことを考えました。

子どもの頃、同級生にイラン人の女の子がいました。今ある記憶は一緒に仲良く下校していた思い出だけ。けど、昔の僕、君は本当に差別していなかった?

小学校の途中で彼女は引っ越してしまいました。その後音沙汰なく、疎遠になったのですが、彼女は偶然にも同じ大学に進学していて、大学で彼女と出会いました。四年生の時です。その時、小学校の自分がどんなことを彼女に言っていたのか、聞きたかったのですが、最後まで聞けず、私は卒業を迎えました。

自分は本当に差別していないのか、差別していたとすれば、その事実に向き合って差別しないよう生きていきたい。そんなことを差別された立場になって改めて考えました。

誰かを愛せたあの時の気持ちでいつもいれたら

 Radwimpsの「愛し(かなし)」という曲の一節に「誰かを愛せたあの時の気持ちでいつもいれたら、誰かを傷つける言葉もこの世には無かっただろうな」という言葉が出てきます。

世界が大変なとき、自分が大変なとき、その大変さや脅威を他の誰かに攻撃という方法で発散するのは簡単です。

自分と違う人、違う国籍、違う肌の色、違う言葉を話す人。自分と異なるというのは常に自分からすると畏怖の対象で、自然と「自分と違うな」という気持ちが芽生えます。

でも、違う人だからこそ、理解したいと考えたい。違う国籍だからこそ分かりあいたい。違うからこそ、違いを認めて、そしてその違いをその人と一緒に楽しみたい。そんな気持ちで自分以外のみんなと過ごしていければ素敵です。

そして、この言葉のように、人を愛したその時の気持ちで、お互いを思いやり、助け合えたら、世界はもっともっと優しくなるのかなと思いました。

 

 

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