ヨーロッパの歴史・文化・芸術と切っても切れない関係なのがローマ。
単にローマといっても、実は色々なローマ帝国が存在したのです。
この記事ではローマ帝国について、①ローマ帝国、②東西ローマ帝国、③カール大帝の西ローマ帝国、④神聖ローマ帝国の4つの成り立ちと違いについてみていきたいと思います。
- ローマの歴史とローマの色々
- ローマ帝国とは
- ローマの分裂・東西ローマ帝国の誕生
- フランク王国出現とカール大帝による西ローマ帝国の復活
- ドイツ諸国家の連合体-神聖ローマ帝国
- 各ローマ帝国の違い
- 終わりに
ローマの歴史とローマの色々
ヨーロッパの歴史、芸術、文化のおおもとを創ったとされるローマ。
一口にローマといっても、ローマ帝国、神聖ローマ帝国、東ローマ帝国など、様々なローマが歴史にその名を刻んでいます。
この記事ではそんな様々なローマがいったいどのようなものだったのかについて、それぞれの成り立ちと歴史をご紹介します。
ローマ帝国とは
ヨーロッパは紀元前からローマ帝国という名を持つ様々な大帝国によって統治されていました。その一番初めの基になったのが、ローマ帝国です。
ローマ帝国の始まり
ローマは紀元前8世紀に小さな都市国家としてイタリアに建国されました。ホメロスの叙述史「イリアス」によると、ローマ建国の父はアイネイアスというトロイアの王子。アイネイアスは「パリスの審判」で有名なヘクトルとパリスの姉妹の旦那さんです。
パリスの審判によってもたらされたトロイア戦争。その戦争はギリシャ軍の策略である「トロイの木馬」によってトロイアの大敗に終わりました。
アイネイアスは陥落したトロイアから脱出し、イタリア半島にたどり着き、そこに一つの国を建国しました。これがローマ帝国の始まりだといわれています。
※トロイア戦争の詳しい解説はこちら
ローマの盛衰
一都市国家だったローマですが、だんだんと周りの地域を征服していき領土を拡大。
紀元前1世紀から2世紀にパクス・ロマーナ(ローマの平和と言う意味)と呼ばれる最盛期を迎えます。
200年間ほどこのパクス・ロマーナは続きますが、中でも五賢帝と呼ばれる5人の優秀な皇帝たちによって統治された100年間がローマの最盛期で、最大領土は西のスペインから東はイラクまで、北はイングランド、南は北アフリカ全域と、広大な領土を有していたのです。
ところが、いつの時代も平和というのは長く続かないもので、パクス・ロマーナ後期には天然痘が流行り人口が激減。五賢帝最期の皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の子どもが悪政を行い、反乱が頻発。また、五賢帝時代に戦争が減り、敗戦国から調達していた奴隷労働者が減ったため、市民が労働力として土地に縛られた農民となっていきました。すると人々の移動が激減し、商業が衰退、国力低下に拍車がかかります。
※ローマの五賢帝についてはこちら
ローマの分裂・東西ローマ帝国の誕生
ローマ帝国は現在の西欧から西アジアまでの広大な土地を支配している帝国ですから、国力や求心力が弱まると、一人の皇帝が統治するのが難しくなります。
そこで帝国を分割統治を始めました。しかし、あるときカリスマ的な才能を持ったコンスタンティヌスという皇帝が現れ、再度一人でローマ帝国を統治するようになりました。ですが、このカリスマの子どもは凡庸で、国はまたまた分割統治されるようになり、そして、なし崩し的に西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれてしまったのです。395年のことでした。
東ローマ帝国
東ローマ帝国には分裂前から主要な機能が集まっていたため(東京みたいに)とても強く、その後1453年まで1000年以上続きました。
最盛期は6世紀のユスティニアヌス帝の時。イタリアからイラクまで、そして北アフリカを支配しました。東ローマ帝国は晩年、オスマン帝国の侵攻に苦しめられ、1453年にメフメト2世の攻撃によりコンスタンティノープルが陥落。滅亡しました。
そして、コンスタンティノープルはイスタンブールと改名されたのです。
西ローマ帝国
西ローマ帝国は分裂後も力が弱く、次第に外国人(ゲルマン人)たちの侵略が激しくなっていきます。所謂「ゲルマン大移動」です。
ゲルマン人はこれまでラテン人に支配され抑圧されてきましたが、西ローマ帝国の弱体を機に一気に西ローマ帝国内を進行し、476年、オドアケル傭兵隊長というゲルマン人のクーデターによって皇帝が廃位し、西ローマ帝国は滅亡します。
フランク王国出現とカール大帝による西ローマ帝国の復活
西ローマ帝国の滅亡後、300年以上の間、各地でゲルマン人たちが国を作り、西欧は分裂していったのですが、中でも強かったフランク王国という国が頭角を現します。これは彼らがもともとの宗教を捨て、住民(元西ローマ帝国市民)と同じ宗教を信仰する作戦を取ったからです。
これにより、多くの国民からの求心力を得て、フランク王国は力をつけていきました。そして西ローマ帝国崩壊から330年後の800年にカール大帝が西ローマ皇帝として戴冠され、西ローマ帝国が復活したのです。これをカロリング朝(始祖はカールの父ピピン)といいます。古代人はいつでもローマ帝国を必要としていたのです。
カール大帝によって再び統一された西欧でしたが、彼の後を継いだ皇帝が自分の3人の子どもに領土を分割して相続しました。これはゲルマン人(主に牧畜で生計を立てる)が分割相続(家畜を分け与える)を常としていたためで、この分配相続によって、西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国が誕生。現在のフランス、イタリア、ドイツの原型がここに生まれたのです。
このゲルマン人たちの国づくりは多くの国々の言語にも影響をもたらしました。その中の一つがフランス語への影響です。フランスは長らくゲルマン人国家であるフランク王国・西フランク王国に統治されていたため、統治下のフランスの言語であるフランス語に統治者の使用するゲルマン系言語が影響し、文法や語彙、発音などが大きく変化し、他のラテン系言語とは異なる独特の進化を遂げることになったのです。
※ラテン系言語についてはこちら
ドイツ諸国家の連合体-神聖ローマ帝国
西・中部・東フランク王国は、どこも初めはカロリング朝というカール大帝の血筋だったのですが、出生率の低い時代だった(3人に2人が死亡)ため、100年経たずにカロリング朝の血をもつ王族が断絶してしまいました
カロリング朝断絶後、フランスはユーグ・カペーというめちゃくちゃ戦争がうまい人が推挙され、王になり、カペー朝を創始。
イタリアは周りの国に侵略され続けました。
ドイツは、選挙で王が選ばれたのですが、その王が自分の子どもであるオットー1世に世襲、このオットー1世がローマ教皇によってローマ皇帝に戴冠され、962年に神聖ローマ帝国が誕生。その後世襲を続けましたが、1356年、「皇帝はドイツの有力者である、選帝侯が選挙をして選ぶ」という決まりを作りました。その後選挙で皇帝が選ばれる体制となりました。
1400年代後半から、ハプスブルク家という家系が皇帝を世襲するようになります。最盛期は1519年から1556年まで即位したカール五世です。彼はスペインやナポリ王も兼任しました。ちなみに、彼の息子フェリペ2世はスペインの国王となり、後にスペインを「日の沈まぬ国」と呼ばれる超大国に成長させたのです。
神聖ローマ帝国は800年以上続いたのですが、1806年に解散され、その歴史に幕を閉じました。
各ローマ帝国の違い
ローマ帝国は5つの形態があることが分かりました。この5つのローマ帝国の違いを見てみます。
①元々のローマ帝国(紀元前8世紀から395年)
ラテン系。
一般にローマ帝国というとこのことを指します。パクスロマーナの時代に一番繁栄し、五賢帝という優秀な皇帝時代に絶頂期を迎えました。その後の分割統治によって東西ローマ帝国に分裂しました。
②西ローマ帝国(395年から476年)
ラテン系。
ローマ帝国が衰退し、そのシステムを維持できなくなったため、分裂し、その西側がこの西ローマ帝国。弱すぎてゲルマン人に蹂躙され直ぐに滅びます。
③東ローマ帝国-別名ビザンツ帝国(395年から1453年)
ラテン系+ギリシャ系。
ローマ帝国が衰退し、そのシステムを維持できなくなったため、分裂し、その東側がこの東ローマ帝国。首都機能を有していたため、1000年近く続きましたが、最終的にオスマン帝国の侵攻でコンスタンティノープルが陥落。その歴史に幕を閉じました。
④フランク王国カール大帝が戴冠されできた西ローマ帝国(800年から875年)
ゲルマン系。
元々西ローマ帝国崩壊後にできたゲルマン系諸国家の一つであるフランク王国のカリスマ指導者カール大帝が皇帝に即位したときに建国された西ローマ帝国。カール大帝の次の次の代で西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国に分裂。
⑤神聖ローマ帝国(962年から1806年)
ゲルマン系。
④でできた東フランク王国でカール大帝の血筋が断絶したことから、選挙で王を選出。その王の子オットー1世が世襲し、ローマ教皇がオットー1世に戴冠したことで誕生した、ドイツ諸国連合体とも言えるローマ帝国。その後半はハプスブルク家によって統治されました。
※神聖ローマ帝国を知るならこちら
終わりに
今回はヨーロッパと切っても切れない関係であるローマについてみてみました。
ローマの興亡には広大すぎる領土の統治の問題や他民族の侵攻といった様々な出来事が関わっていたことが分かり、また、この時代の統治形態の変化が国々の言語にまで関わっていたことが分かりました。
ローマは一日にして成らずといいますが、ローマ帝国は波乱万丈、時代によって様々な変化を遂げ、ヨーロッパ諸国の礎となったのです。
※ローマ観光記事はこちら